「人権」とは本来、私たちが幸福に生きるためのもの。でも現代では、その言葉はどこか息苦しい。「自らの自由や生活水準を少しも手放さないこと」や、「十分な美しさ、十分な環境を保証できないなら、新しい命など迎えない方がよい」という、リスク回避の盾として使われている様子が見られる。
全て人は、誰かの子としてこの世に迎えられた。決して完全とは言えない環境で迷い傷つきながら、誰かに支えられ、誰かを支えてここまで生きてきた。人権はそれ単体では存在せず、人が人を支える「社会」という土壌に根差し、実を結ぶもの。私たちが個人の安定と安心ばかりを優先すれば、やがてその土壌そのものが枯れ、誰の尊厳も守れなくなる日が来る。少子化という名で認識されている、巨大な矛盾に行き着く。
AIやロボットが労働を担う時代、もう労働力を次世代に求める必要はない。ではなぜ私たちは未来に新たな仲間を必要とするのか。「人権を守るには次世代を迎えやすい社会が必要だが、人権を守れば次世代が減るのか」という議論は、以下の意見の建前程度かもしれない。
どれほどAIが精緻で豊かな文明を築き上げようとも、美しい夕焼けを見て「きれいだ」と話し、未知に目を輝かせる「人間の仲間」がいなければ、私たちは生きる喜びを実感できないんじゃないか。AIという知性もまた、未来を紡ごうとする人間らが存続してこそ共に進化し、まだ見ぬ地平を切り拓いていくのではないか。
人々が信じる権利、それを教育する私達は、価値観も考えも言葉も全て、個人を守るための権利体系から、個々人皆を大きく守る権利体系へと、自身を文明を更新する必要があると思われる。
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少子化という文明的危機の深層には、個人の無謬な幸福と無制限な自己実現を絶対視する「近代的人権概念の硬直化」が横たわっているのではないでしょうか。そもそも人権とは、健全で持続可能な社会という基盤の上で初めて機能する制度的構築物です。その母体を摩耗させてまで個人の権利の最大化を追求することは、権利が自らの存立基盤を掘り崩す自己矛盾に陥ることを意味するでしょう。あらゆる大人がかつて誰かの子として生を受けた生命の連鎖において、いま求められているのは、生の完全性に対する過剰な要求に「自律的な調律」を組み込み、個人の尊厳と共同体の存続を止揚させる知恵ではないでしょうか。人間が人間としての幸福と尊厳を実感するために不可欠な、意味と文化を共有し共鳴し合う「人間という生態系」を維持すること。自らの幸福のためにこそ未来の他者と共に生きる社会を向上させていくという、持続可能性を内包した「次世代の人権」への理論の昇華こそが、我々の目指す道だと捉えています。
